週末に行われる中央重賞の過去の優勝馬をピックアップして回顧し、競馬の長い歴史の狭間できらめいた馬を紹介する「中央重賞懐古的回顧」。初回は2005年の中京記念優勝馬メガスターダムを取り上げる。
競馬という娯楽はまず「予想」で成り立っていると言える。レース予想はもとより、生産の現場やPOG、または騎手や調教師ら関係者がムフフと思い描く青写真だってそうだ。他の何が無くとも、競馬には予想や想定、あるいは夢想が欠かせない。
1999年生まれのメガスターダムは、競馬に関わる各々の予想をことごとく意外な形で覆す馬だった。単勝オッズ50倍の低評価をあざ笑うかのように4角先頭の競馬で他馬を完封したラジオたんぱ杯2歳Sをその例として示すのはたやすいが、私には彼の生涯自体が意外性に富んでいたように思えてならない。
名マイラー・ニホンピロウイナーを父に持つだけあって、明けて3歳を迎えると距離不安がささやかれたが、三冠競走では常に掲示板を確保。特にあわやのシーンを作り出して3着に入った菊花賞は惜しい内容だった。皐月賞5着、ダービー4着、そして菊花賞3着と距離が延びる度にパフォーマンスを高める姿に、にわか血統派であった当時の私は本当に驚かされた。
菊花賞後の調整中に屈腱炎を発症した彼は長い休養へ入る。それも両前脚を患ったのだから予後は悪かったはずだ。だが約2年の歳月を掛けて2004年12月に戦列へと復帰するといきなり2着に入り、6歳となった翌年1月には松籟Sを制して再びオープン入りを果たす。
そして当時は芝2000mの距離条件で3月に施行されていたG3・中京記念にて歓喜の瞬間は訪れた。長年の相棒・松永幹夫騎手を背に乗せて、前半5ハロン58秒5の速い流れを中団から追走。最後の直線に入ると最内をスルスル抜け出して、しっかりと押し切った。2着に食い込んだ1歳上のサンライズペガサスも同じく屈腱炎に苦しんだ馬とあって、苦難の末に復活を遂げた彼らの姿は見る者の心を揺さぶった。この感動の場面を「意外」と表現するのはメガスターダムに対して失礼かも知れないが、3年の休養を経て7歳時のオールカマーで返り咲いたホッカイルソーに匹敵する驚異であるように私は思ったものだ。
名マイラーの産駒として意外にも思えたメガスターダムの豊富なスタミナは、実はその母方の血脈に裏打ちされていた。本邦の名牝系の一つであるプロポンチス系の肌にチャイナロック、ダイハード、それにマルゼンスキーと代々重ねられた母フミノスキーの血統は本格的の一語。短距離血統であるハビタットの直系から牡馬クラシックを狙える馬が出たというのは、2002年当時にしても世界的に貴重だったはず。父の血筋を根拠とした「意外」を生み出したのは、まさしく彼の身体に流れる母の血であり、それはむしろ「必然」とも呼べたのだろう。
歓喜の中京記念に続いて出走した産経大阪杯で5着に敗れた後、屈腱炎を再発したメガスターダムは間も無くターフを去った。引退後は種牡馬入りを果たしたが、父親として持ち前の意外性を発揮するに至らなかったのは残念至極である。
メガスターダム
牡 黒鹿毛 1999年生
父ニホンピロウイナー 母フミノスキー 母父マルゼンスキー
競走成績:中央21戦5勝
主な勝ち鞍:ラジオたんぱ杯2歳S 中京記念
(文・古橋うなぎ)