週末に行われる中央重賞の過去の優勝馬をピックアップして回顧し、競馬の長い歴史の狭間できらめいた馬を紹介する「中央重賞懐古的回顧」。第28回は1993年の京成杯3歳S(旧馬齢表記・現在の京王杯2歳Sにあたる)優勝馬ヤマニンアビリティを取り上げる。
(当記事における馬齢表記は旧馬齢表記に統一)
アレミロードは往年のダビスタ世代には懐かしい種牡馬の1頭かも知れない。もっとも、さらに古くから競馬を見てきたファンになると1986年のジャパンCにおけるジュピターアイランドとの叩き合いが想起されるか。種牡馬としての本邦輸入に際しては現役時の成績から中長距離での活躍を意図されたと思われるが、父方の気の悪さが強調されすぎたのか母の父ボールドリーズニングの影響かは分からないが、特に初期は早咲きの短距離馬ばかり出した。代表産駒であり、揃って京成杯3歳Sを制したヤマニンミラクルとヤマニンアビリティの全兄弟もその類と言って良いだろう。
兄ヤマニンミラクルがミホノブルボンに肉薄したことで名を残したように、弟のヤマニンアビリティは今となっては「京成杯3歳Sでヒシアマゾンに勝った馬」としてのみ知られる存在であろう。出負けからすぐさま馬群に入れて道中折り合い、直線では外のヒシアマゾンに決して抜かせずに追い比べを制した好内容。朝日杯3歳S(現在の朝日杯FS)にてミホノブルボンが番手で折り合いを欠いた隙を突いた兄と比較すると印象は良い。何より兄は歴史的名馬にハナ差負けたが、弟は歴史的女傑にクビ差勝ったのだ。しかも真っ向勝負で。
兄弟を生産した錦岡牧場の土井睦秋代表が「アビリティの方が大物感はあったね」と語っていた通りに、デビュー時512キロと馬格のある弟の方がスケールも大きいというのが当時の認識であり、『優駿』発表のフリーハンデでは朝日杯を完勝したナリタブライアンと同斤量で1993年の3歳牡馬の1位にランクされるぐらい識者の評価も高かった。なのに後世語られる機会は兄ミラクルの方が多い。これは何故かと言えば、ヤマニンミラクルがクラシックでミホノブルボンらと戦ったのに対して、ヤマニンアビリティはそれっきり姿を消してしまったからである。
朝日杯を目指して調整されていた矢先、腰に疲れを生じて出走回避。翌春のアーリントンCでのカムバックを目指したが、今度は右飛節に骨膜炎を発症して予定は白紙となった。その後の休養は長かった。長い休養の間にナリタブライアンが三冠を制し、その兄ビワハヤヒデが競馬場を去り、ヒシアマゾンは重賞6連勝を飾り、サクラローレルが遅れてきた春を謳歌した。そして父のアレミロードは1995年に他界した。同期の桜が第二の馬生を歩み始めた頃、1997年3月の準オープン・なにわSに彼は名を連ねる。あの京成杯3歳Sから約3年4ヶ月の歳月を経てターフに帰ってきた彼は、もう7歳を迎えていた。
長期休養から彼を復帰に導いた関係者の尽力には本当に頭が下がる。戦線復帰後は短距離を中心に5戦を重ね、同年6月の飛騨Sでは僅差の2着に食い込むなど復調の兆しも見えたが、結局限界を迎えて9月末に登録を抹消された。こうして「ヤマニン一族の賢弟」は一介の準オープン馬として競走生活を終えたのであった。
ヤマニンアビリティ
牡 鹿毛 1991年生
父アレミロード 母ヤマニンシャレード 母父ヤマニンスキー
競走成績:中央8戦2勝
主な勝ち鞍:京成杯3歳S
(文・古橋うなぎ)