デビューがいつか?忘れもしねぇ1985年の10月よ。前日からの雨で馬場コンディションは不良。ただ…俺は好きなんだ、ぬかるんだ馬場(笑)。なぜって?そりゃ大好物のレンコンが植わってるのも泥ん中だからな。(※稀代の名馬ニッポーテイオーはレンコンが大好物という話はオールドファンの間では有名だ。)6頭立て2番人気。1番人気のアサヒエンペラー(後に天皇賞(春)2着)も含めてブッちぎってやったよ。「大差勝ち」ってやつだ。厩舎も沸いたね。末は重賞かダービーか…って。 ところがその後2連敗。クラシックの登竜門・弥生賞(G2)に出た頃にゃ俺の評価は微妙になってた。4番人気3着で皐月賞(G1)に駒を進めたが8着惨敗。陣営はこの敗戦で俺の距離適性を“中距離”と見定めた。 当時、日本ダービーに出られなかった“残念”な馬が集まった夏の3歳重賞「ラジオたんぱ杯」(現在のラジオNIKKEI賞で通称「残念ダービー」)。皐月賞馬ダイナコスモスの参戦で2着に負けた俺に転機が訪れた。 どんな転機か?主戦騎手が変わったのさ。郷原洋行(ごうはらひろゆき)その人だ。このオッサンこそ、俺を真の男にした名手、“剛腕ゴウハラ”。パワハラとか、セクハラとか、人間様の世界じゃ色んな“ハラ”があるようだが、このオッサンの“ハラ”はハンパない。馬がヘバっていようが何だろうが、追って、追って、追いまくり、体力なんざ1ミリも残ってない馬を先頭でゴールまで持っていく。それでついたあだ名が“剛腕ゴウハラ”だ(笑)。文字通り、レースはシビレる…。主戦がオッサンに代わってから引退まで、俺は一度も馬券圏外に飛んだことはなかった。13戦、ずっとだ。 俺の生涯でファンの記憶に名を刻んだレースといえば天皇賞(秋)だろう。昭和天皇がご高覧した第96回(1987年)で俺が6歳の時の話だ。 舞台は府中の芝2000m。日本一長い(当時)、逃げ馬にとってはタフな直線に俺にはギリギリの距離。それでもみんなが俺に期待した(1番人気)。天皇、皇后揃ってお目見えの天覧競走とあっちゃ負けるわけにはいかない。俺の名はニッポー“テイオー”だから。天覧席の皇后様が馬柱を見て「11番、トチノニシキ…(笑)おすもうさんみたいね…」なんて仰るのが聞こえたが、緊張と気合で笑えなかった。 レースはオッサンの気合一発、ハナを切った俺が1000mを60.2秒で通過。そのまま第4コーナーを先頭で抜けて残りは直線500m。スタンドが湧いたよ。オッサンがいよいよ追い出したが、俺にはまだ余力があった。勝てる!って思ったね。後ろから足音も聞こえなかったし、食ったレンコンもいつもの倍だ。それでもこの日のオッサンは違った。追うわ、追うわ…しごくわ、しごくわ(笑)。これでもかっていうくらい剛腕ぶりを発揮して、気づけば後続につけた着差は5馬身。2着には同じ“テイオー”の名前のレジェンドテイオーが残り、天覧競走は「テイオー、テイオー」のめでたし決着。昭和の名レースの1つとなった。後で聞いた話だが、レース前、皇后様に「お相撲さんみたい」なんて言われたトチノニシキは気を良くしたか、11番人気を覆して4着に来たらしい。 俺は天下の風来坊。産駒に大物はないし、母父としても2017年生が俺の血を引く最後の産駒。だが、俺が勝った1987年以降、天皇賞(秋)をスタートからゴールまで先頭で逃げ勝った馬は一頭もいない。今や天に召された俺の唯一の自慢だ。覚えておいてくれ。俺の名はニッポーテイオー。昭和最後の、最強逃げ馬だ。 ニッポーテイオー 父:リイフオー 母:チヨダマサコ 母父:ラバージヨン 鹿毛 1983年生 通算成績:21戦8勝 主な勝ち鞍 天皇賞(秋)、マイルCS、安田記念(G1) 主な産駒 インターマイウェイ、ダイタクテイオー