週末に行われる中央重賞の過去の優勝馬をピックアップして回顧し、競馬の長い歴史の狭間できらめいた馬を紹介する「中央重賞懐古的回顧」。第43回は1993年のラジオたんぱ杯3歳S(旧馬齢表記・2014年以降のホープフルSに当たる)優勝馬ナムラコクオーを取り上げる。
(当記事における馬齢表記は旧馬齢表記に統一)
「キャプテンナムラの呪い」という言葉が古くからある。いや、ない。たった今私が作った。
いわゆる「ナムラ軍団」の馬はG1勝ちに未だ恵まれないが、それは先代の奈村信重オーナーが初期の活躍馬である1978年の菊花賞2着馬キャプテンナムラを晩年紀三井寺競馬へ放出したからだ…とするこじつけ。それが「キャプテンナムラの呪い」である。言いがかりもいいとこ。ナムラ軍団の特徴としてもう一つ挙げられるのが「地方移籍の際に馬主の名義が変わる」というもの。どうも奈村オーナーは地方競馬で馬を持たない主義であったらしく(ただし息子の睦弘氏の代になってから兵庫で数頭持っている)、有名なナムラコクオーも高知移籍後オーナーが替わっている。
「打倒ナリタブライアンの旗手」と謳われたナムラコクオーは1991年生まれ。その父キンググローリアスはテューターなどとともに本邦における初期のミスタープロスペクター系種牡馬のイメージを形成したが、それは「ダート短距離向きの早熟血統」というものだった。ナムラコクオーもまずダートで5戦2勝として、1993年12月のG3・ラジオたんぱ杯3歳Sへと駒を進める。
人気を集めていたのはメジロティターン産駒のパリスナポレオンだった。この馬は同父のメジロマックイーンの引退とほぼ同時期に登場した経緯から「マックイーン2世」なんて呼ばれたりもした。片やナムラコクオーは単勝6番人気と低評価だったが、デビュー2年目の上村洋行騎手を背に2着パリスナポレオンに4馬身差つける圧勝劇を演じたことで一躍クラシック候補に。だがこの世代にはナリタブライアンがいた。
4歳になってシンザン記念とNHK杯を完勝したことにより、日本ダービーでは対抗馬としてナリタブライアンに挑んだものの6着敗退。前述の呪いが招いた敗戦かどうかはさておいて、これが彼にとって最初で最後のG1挑戦となった。
その後は屈腱炎と付き合いながらだましだまし使われ、1996年にはプロキオンSを勝利。しかし中央で走るには脚が限界に達し、26連勝のハッコウマーチブームに沸いていた高知競馬へと移籍する。高知ではそのハッコウマーチの主戦である中越豊光騎手がもっぱら跨り、編成の都合から一度は最下級に落ちるも、後には当地の重賞を勝つほどに蘇った。2003年3月には地元代表として交流G3・黒船賞にも出走している(9着)。
10歳を軽く超えても高知競馬場で年少の馬と競い続けたナムラコクオーは、2003年9月のレースを最後に表舞台から姿を消し、その2年後正式に引退を発表した。そして“退場”した彼と入れ替わるようにハルウララが日本中の話題をさらうことになる。先のブームをはるかに超えるこの歴史的大フィーバーに続いて、大型連勝を続けたイブキライズアップ、時の人だった堀江貴文氏所有のホリエモン、アラブのエスケープハッチといった人気者が高知競馬に次々と現れるわけだが、それはまた別の話である。
ナムラコクオー
牡 黒鹿毛 1991年生
父キンググローリアス 母ケイジョイナー 母父サドンソー
競走成績:中央14戦6勝 地方33戦21勝
主な勝ち鞍:NHK杯 シンザン記念 ラジオたんぱ杯3歳S プロキオンS
(文・古橋うなぎ)