小高さんの競馬日記

かしわ記念に

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一石橋と西河岸橋の間、日本橋川に沿った雑居ビルの一室に「千」はある。
居並ぶビルの隙間、蒼然とした路地を進むと、変哲も無い硝子戸のエントランスが見える。
小高は腕で戸を押し開けると、デニムからカードキーを取り出し、
エレベータの横にある差込口にそれを読ませた。
程なくして、扉が開くと、定員2名程度の狭い空間は、化物の寝息のような音を立てて階下へと向かっていく。何が会員制だと、鉄扉のプレートの文字を読みながら、小高は防犯カメラに手をあげる。
解錠の音がすると、ここも一度の侵入を防ぐための引き戸になっており、背をエレベーターの扉に擦るようにしながら足を踏み入れた。
「お待ちしていました」
紺のシャツにジャケット姿の棒戸が顔を出す。
整った顔立ちの背後に覗く内装は、日本料理屋然とした造りだ。一枚板のカウンターには座席が8つ、薄闇の中で、木目調と白壁の組み合わせは
存分に調和を感じさせ、弱光を浴びた盆栽が隙間に立体感を与えている。奥の壁面にはたてがみをなびかせた馬の群れが草原を駆けている古い絵が掛かっており、小高はいつものようにこの絵画に向き合う位置に腰をおろした。
平和島に「千」があった時の名残があるとすれば、この絵画だけで、正面に座ると、当時の記憶が鹿威しの水のように、少しづつ流れおちてくる。この店の主人は「千ちゃん」と呼ばれる同性愛者の老人だ。「騸馬だから、せんちゃん」と小高とミチオに英さんが笑いながら耳打ちしたのは1997年で、サニーブライアンがダービーを逃げ切った年、初めて「千」に顔を出した時のことだった。



「カフェファラオを頭にすることにした」
意外そうな顔で、棒戸は小高を見つめた。
「ということは、今回こちらにいらした理由は?」まだ、三十路に届かない齢だろうが、物腰は柔らかく声は落ち着き払っている。
「これを千ちゃんに渡しておいてくれ」
四隅が煤けた古い写真をカウンターに置く。
一点買いの馬連馬券が大写しになっている。
棒戸の瞳孔が一瞬広がったように見えた。
「なるほど、わかりました」
目をそらし絵の中の草原に視線を投げた。そうしなければ、いつまでもこちらの目を見続けてくる気がする。不気味なガキだと思う。
「後学ですが、何故カフェファラオを?いつもの小高さんならディープボンドのようにベットすると思っていたのですが」写真と入れ替わるように、旬菜と日本酒が置かれた。「無観客でなければベットしていた。それだけ。」菜の花の歯ごたえに、顎骨が悦びの音色を重ねた。



「海外にサーバーがあるということが基準であり」
半年前に「千」で棒戸から聞いた説明は、エリーが当時語った構想そのものだった。
ITの時代。当時、平和島の日雇いからも聞こえてきた言葉。
「オッズコンパイラーはAIに置き換わっていくことが時代の流れですが」
ただのノミ屋だと小高は脳内で言葉を変換する。「そして、それは手段であり、目的は」
棒戸の声に熱がこもる前に、言葉を遮り、引き受けると伝えた。
絵の中の馬に若駒は少ない。草原はいまもあの時に見た景色と変わらないのだろうか。
記憶は雪片のように触れる度に融けていく。
自身の中の尤も冷えた箇所でそれを受け止める必要があった。
地上に出ると、逆流するように、俎橋に向かう。
感情の水位とは無縁に、川はいつも静かに流れていた。

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