グリーンセンスセラさんの競馬日記

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JRAイチの「豪快王」小島太列伝。愛人、酒席トラブルあっても名騎手、名調教師の生き様に曇りなし─ Gambling Journal ギャンブルジャーナル 分 / 2018年3月3日 7時00分 http://biz-journal.jp/gj/2018/03/post_5967.html

一つの時代が終わった。

 昭和を代表する名騎手であり、調教師としても活躍した小島太師の引退である。

 まさに自由かつ奔放、豪快という言葉に相応しい人だったが、調教師になった晩年はその人となりも穏やかになったと思える。とはいえ小島師が築いてきた実績とその存在は大きく、多くの騎手や関係者、そして競馬ファンがその影響を受けていることだろう。

 引退日最後の重賞にディサイファを出走させたが、その時にファンから送られた大きな歓声は小島氏が多くのファンに愛されてきた証しでもある。今回は小島師の引退に合わせ、これまでの歩み、実績、豪快な人生を振り返ってみたい。


 1947年4月11日生まれ、北海道斜里郡出身の小島太が騎手になったのは66年。日本経済が前年までの不況から回復し、いわゆる高度経済成長期に突入していた時代。同年は競馬人気も急上昇を遂げ馬券の売り上げも過去最高を記録、そんな時代に騎手としてデビューしたのである。この年に行われた第33回日本ダービーを優勝したのはテイトオー。この日本ダービーは今では考えられない28頭立てで行われ、2頭が競走中止、12番人気が1着、18番人気が2着、4着馬は26番人気という波乱のレースだった。

 騎手としての同期生には同じく先日引退となった池上昌弘と目野哲也、すでに引退している田島良保、安田富男、平井雄二らがいる。騎手課程修了後は、厩舎実習で世話になった東京競馬場の高木良三厩舎にそのまま所属し、そこで当時1頭しか所有していなかった馬主の全演植(さくらコマース)と運命的な出会いをすることになる。

 当時の競馬は尾形藤吉調教師が毎年のようにリーディングを獲得し、66年には年間92勝という圧倒的な成績を記録していた。そんな時代に小島太が父が望んだ尾形藤吉厩舎への所属ではなく、騎乗機会を求めて高木厩舎を選んだのは、この時点ですでに勝負師としての勘が働いたのだろうか。

🏇次のページ 86年で1番人気に騎乗したときの勝率56.8%、連対率70.3%(騎乗37回)

 デビュー1年目は11勝だが勝率8.8%は決して悪い数字ではなく、2年目には年間37勝だけでなく重賞3勝、3年目も重賞3勝と順調に勝ち星を伸ばした。デビュー7年目の72年は年間48勝で関東リーディングジョッキーを獲得。そして78年にはサクラショウリで日本ダービーに優勝、G1ジョッキーの仲間入りを果たした。

 83年にはサクラショウリの馬主である全演植(さくらコマース)と専属騎乗契約を交わしたが、これが500万円という破格の金額。当時の日本ダービー1着賞金の約14分の1という金額だ。その後86年にはサクラユタカオーとのコンビで天皇賞(秋)を勝利、88年にはサクラチヨノオーとのコンビで二度目の日本ダービー優勝。さらにサクラホクトオー(朝日杯3歳S)、サクラバクシンオー(スプリンターズS)、サクラチトセオー(天皇賞秋)、サクラキャンドル(エリザベス女王杯)など、サクラの馬で数々のビッグレースに勝利した。

 小島太は勝っても負けても華になる騎手だった。大一番での勝負強さもあれば、意外な負け方をするときもあった。しかし自ら率先してフランスへ騎乗技術を学びに行くなど、その姿勢を評価する声も大きかった。

 また86年で1番人気に騎乗したときの勝率56.8%、連対率70.3%(騎乗37回)はかなりの数字。引退3年前の94年でも勝率53.6%、連対率67.9%(騎乗28回)から見ても、やはり騎手として強い馬を勝たせる技術があったのは間違いあるまい。(参考記録=2017年ルメールで勝率38.1%、連対率58.7%、武豊が年間212勝を記録した05年で勝率37.9%、連対率52.3%)

 騎手として絶頂期を迎えた1987年頃より全演植(さくらコマース)と絶縁状態になり、数か月後に和解するものの一時期さくらコマースの馬にまったく乗れなくなるという事態が生じたこともあった。このトラブルは別の馬主との接近が要因だが、それも人気と実力があったからのものであろう。

 そして1996年2月25日、中山競馬場で騎手小島太は引退し、引退式には「フトシ」コールが起きた。それほど多くのファンに愛された騎手だったのだ。通算成績は8474戦1024勝(重賞84勝・日本ダービー2勝)と一流ジョッキーと呼べる素晴らしいものであった。

🏇次のページ イーグルカフェでNHKマイルCを勝利しG1初勝利、マンハッタンカフェが菊花賞と有馬記念に優勝

翌97年3月には所属していた境勝太郎調教師が定年引退、その厩舎を引き継ぎ小島太厩舎が開業。調教師1年目にはサクラローレルでフランス遠征という無謀ともいえる挑戦を行う。騎手時代からフランス競馬には縁があったことも後押ししたのだろうが、結局この遠征でサクラローレルは故障を発症し引退となってしまった。

 厩舎開業4年目の2000年にはイーグルカフェでNHKマイルCを勝利しG1初勝利。翌2001年にはマンハッタンカフェが菊花賞と有馬記念に優勝、02年には天皇賞(春)も勝利した。02年11月のジャパンカップダートでイーグルカフェが再びG1を勝利したが、調教師としてはこれが最後のG1勝利であった。調教師として476勝、重賞24勝も名伯楽と呼べる素晴らしい成績といえるだろう。


 小島太の騎手時代を知る関係者の多くは、その自由奔放な生き様に憧れも畏怖もあったようだ。本人も自らを「不良」と評し、酒の席でのトラブルは数知れず、宵越しの金は持たないような生活。故境勝太郎氏の娘と結婚したものの、多くの愛人を抱えて厩舎開業時に離婚届を提出。騎手時代の異性関係は国籍を問わず、現在次男の小島良太調教助手、小島勝三調教助手、小島太一騎手がトレセンで活躍しているが、兄弟の母親は違う。

 息子である二人の調教助手は3月に開業する和田勇介厩舎に転厩、小島太一も同じ和田厩舎の所属となった。そして小島太厩舎にいた馬の多くも和田厩舎へ転厩となったが、小島太はその和田厩舎の開業費用(数千万円と言われている)を負担するなど太っ腹なところを見せている。

 引退後は競馬関係のマスメディアに出演する機会も増えるだろう。また趣味である相撲観戦は相当な知識があるという。当時横綱だった千代の富士や師匠の九重親方(当時)とは親友同士で、銀座でよく飲み明かしたとか。過去にNHKの大相撲中継に出演して解説したこともあったが、そういった機会も増えるかもしれない。小島太の第三の人生と活躍に期待したい。

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