グリーンセンスセラさんの競馬日記

【追悼】ゴールドアリュール

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【追悼】悲運のダート最強馬ゴールドアリュール。武豊と目指したドバイワールドカップ。─ Gambling Journal ギャンブルジャーナル /2017年02月23日 21時00分00秒 http://biz-journal.jp/gj/2017/02/post_2668.html

 まさにダート最強を示したレースだった。2003年2月23日第20回フェブラリーステークス(G1)、1番人気に支持された武豊騎手鞍上のゴールドアリュールは横山典弘鞍上のビワシンセイキの追撃を振り切り快勝、これでダート重賞6戦5勝、国内ダート戦線に敵無しとなり、夢は3月のドバイへ向けられた。圧巻のレース内容から日本馬によるドバイワールドカップ初制覇は目前と誰もが感じていた。そして誰よりもその夢を描いていたのが、同馬を生産した追分ファームの吉田晴哉、吉田正志親子だろう。

 追分ファーム代表の吉田晴哉氏は、社台ファーム代表の吉田照哉氏、ノーザンファーム代表の吉田勝巳氏を兄に持つ三兄弟の一人。追分ファームの開場は社台ファームとノーザンファームよりも遅く、すでに競馬界を席捲していた兄たちには大きく遅れていた。父晴哉氏はもともとクラブ馬主社台レースホースの代表を務めていたこともあり、牧場経営を考えていなかったようだが、その父で社台グループの創業者である吉田善哉氏が「孫の正志に牧場をやらせろ」と遺言を語っていたことで追分ファームが誕生したという。

 追分ファーム設立後、遅れを挽回するために良質な繁殖牝馬を海外から輸入、その中でアメリカから輸入したニキーヤはダート最強馬ゴールドアリュールをこの世に送り出し、牧場に初G1レース制覇を届けてくれた。

 ゴールドアリュールはニキーヤにとって2番目の子供で、父は日本競馬の歴史を塗り替えたサンデーサイレンス。牡馬ながら3月3日のひな祭りに誕生した同馬はディープインパクトでお馴染みの池江泰郎厩舎に預けられた。デビュー前からクラシックを目指して調整されたが、ソエに悩まされ、さらに気性的な問題も重なって惜敗が続き、芝では勝ちきれないレースが続いた。

 デビューから7戦目、ここまで芝で勝ちきれないレースが続いていたことで切れる脚が欠けると判断した陣営は、初めてダート戦を選択。結果は3歳ダート戦としては優秀な1分51秒6という好時計で2着に4馬身差を付ける圧勝、この一戦で同馬はダートでの素質を開花させる。オープンクラスとなった同馬は続く端午ステークスも4馬身差の快勝。その後はダートで3連勝としてきたものの、3歳馬にとって一生に一度の晴れ舞台である東京優駿(日本ダービー)に出走、大方の予想を覆す5着に好走しその能力を証明したといえるだろう。

日本ダービーのあとは大井競馬場で行われる地方交流重賞ジャパンダートダービー(Jpn1)に出走し、危なげない内容で2着に7馬身差を付ける圧勝、ダート3戦で2着に付けた着差は合計15馬身、まさに3歳世代ダート界の頂点に立ったのである。

 夏を山元トレーニングセンターで休養に充てたゴールドアリュールは秋の初戦を地方交流重賞ダービーグランプリとし、レースは大幅に馬体が減少していたものの2着に10馬身差を付ける圧勝。陣営はこの時点で年内の最大目標を11月23日のジャパンカップダート(G1・今のチャンピオンズカップ)、さらに来年のドバイ遠征を計画してドバイワールドカップへ登録した。

 その後秋は一度も放牧に出さず厩舎で調整され、ジャパンカップダートはアドマイヤドンに次ぐ2番人気に支持された。しかしレースは初めて対戦した古馬の壁を超えることができず5着に敗退、ダート戦で初めて敗北を喫したのである。その後年末の地方交流重賞東京大賞典への出走が決定し見事勝利、この結果が決め手となり同馬は2002年のJRA最優秀ダート馬、2002年NARダートグレード競走最優秀馬(特別表彰馬)に選出された。

 2003年初戦は中山競馬場で行われたフェブラリーステークス(G1)。例年東京競馬場で行われていたレースだが、この年はスタンドの改修工事があったため中山で開催。初のJRAでのG1レース制覇を目指して調整されていた。吉報が届いたのは1月末、登録していたドバイワールドカップに選出され陣営の悲願だったドバイ遠征が決定、

「フェブラリーステークスを勝ってドバイへ行こう」

 という目標によって陣営は一つとなり、ゴールドアリュールはその期待に応えて優勝、日本代表馬としてドバイワールドカップへ向かうこととなったのである。


 レース後も順調で3月14日には海外輸送のため美浦の検疫厩舎に入厩して調整が続けられ、出国は3月20日の成田発、シンガポール経由でドバイへ向かうというスケジュール。馬は完全に本格化、順調に調整されて体調は万全、まさに日本馬が世界を制する瞬間は迫っていたが、世界情勢は風雲急を告げていたのである。

 まさに出発当日3月20日に発生したイラク戦争(第2次湾岸戦争)。遠い中東の地とはいえ関係者が懸念していた戦争が勃発してしまった。

 ドバイワールドカップが行われるアラブ首長国連邦は戦場となったイラクと目と鼻の先にあり、当初予定していたシンガポールからドバイへ向かう飛行機は飛べなくなってしまった。3月20日に日本を出発する予定だったが、それが判明したのが出発当日という不運。関係者はあらゆる手段を講じてドバイへの移動を模索したが情勢に変化はなく、また時間も迫っており遠征中止が決断されたのである。

「日本からシンガポールまでは行けるけど、シンガポールからドバイに行く手段がない。ヨーロッパ経由も他のルートも探したけど無理でしたし、レースまで9日しかなくて時間がなかった。本当にガックリ来ました。牧場にとって大きなチャンスでしたし、メンバー的にもチャンスは大きいと思っていましたから。このドバイとフェノーメノの日本ダービー(勝ち馬から23cm差の2着)は本当に悔しかった」(追分ファーム関係者)

 競走馬がピークの状態を維持するのは難しい。ましてはゴールドアリュールは

「池江調教師だけでなく他の調教師も勝てると言ってくれたので期待は大きかった」(同関係者)

 と感じたほどの仕上がりにあった。それだけに関係者の無念さは想像を絶するものだっただろう。

 それでも「来年のドバイ」を目指しゴールドアリュールの新たな挑戦が始まり、1ヶ月後のアンタレスステークス(G3)に出走が決定、59kgの酷量を背負いながら2着に8馬身差の圧勝、あらためて国内ダート最強のプライドを見せつけた。

その後は春のダート戦線最大のレースである地方交流重賞・帝王賞(Jpn1)に出走、断然の1番人気に支持された。陣営は「多少状態が落ちていても負けることなんて考えていなかった」と余裕の表情であったが、レース後にまさかの表情に変わる。いつもと同じ先行していつでも抜け出せる態勢、しかし直線はまったく伸びようとせず11着に大敗してしまったのである。

 レース後の歩様に乱れはなく故障も怪我もなかったが、池江調教師によるとレース後の息遣いが「ゼーゼーと荒かった」とのことで嫌な予感がしたという。その後社台ファームに放牧され内視鏡検査を行ったところ、重度の喘鳴症が発覚。治療後に以前のようなパフォーマンスは期待できないとの判断がされ引退が決定、社台スタリオンステーションで種牡馬入りすることが決定した。

 芝であらゆるG1レースを勝利していたサンデーサイレンス産駒の中でダートに特化したゴールドアリュールは、サンデーサイレンスの新たな可能性を感じさせてくれた一頭である。ゴールドアリュールが成し遂げられなかった夢は子供達が引き継ぎ、エスポワールシチーはアメリカのブリーダーズカップへ挑戦、2012年にはスマートファルコンがゴールドアリュールの主戦騎手であった武豊騎手を背にドバイワールドカップに出走、クリソライトが韓国のコリアカップで海外初勝利と世界へ挑戦している。

 そして2017年2月18日、ゴールドアリュールは天国へ駆けていってしまったが、その直後に3歳馬エピカリスがヒヤシンスステークスを快勝し、ドバイからアメリカへの挑戦を目指すプランを計画。さらに4歳馬ゴールドドリームはフェブラリーステークスを優勝し、来年のドバイ遠征が期待されるなど、ともに海外へ羽ばたこうとしている。

 競馬はブラッドスポーツとも呼ばれており、その「血」は何世代にも何百年も受け継がれていくもの。ゴールドアリュールの血は今も生き続けている。

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